※全編にわたりドラゴンクエスト(DQ)1、2のネタバレがあります。
子供の頃、兄貴がゲームをプレイするのを横から見るのが好きで、その日はDQ1のラスボス戦からエンディングまでを見てました。
で、あれ、ラストで勇者が国を出てくんですよね。それまで無言で滅私奉公を貫いてたのに、王位を譲ろうとしたラダトームの王様に「いいえ。もし私の治める国があるならそれは私自身でさがしたいのです」と言い残してアレフガルドを去っちゃう。勇者、自分の居場所でもないところのためにどうして命がけで戦ったんだろ、と兄妹一緒になって首を傾げて、でもだからこそ「そうかエンドロールの後に勇者は去るものなんだな」というのが幼心に刻まれたのです。
その記憶も薄れつつ思春期に突入し、あのお年頃って「自分は何者であるか?」みたいな存在理由に悩むじゃないですか。「特別な自分」「代わりの利かない存在」を探しつつでも「普通」から弾かれることは望んでない。少なくとも自分はそんな感じで、特別な才能があったら良いなと思うけれど、場の空気から浮いて爪弾きになるのは嫌、みたいな矛盾に悩んでました。
そんなある日、はたとDQ1のエンディングのことを思い出したんです。そうだ勇者は特別な存在だけれども、去らなくちゃいけなかったよねと。勇者が去る理由、幼い自分はいまいち理解できてなかったけれど、ちょっと大人になった自分はわかった気もしたんです。多分、両雄並び立たずなんだなと。
人間の王様にとって竜王が邪魔で討伐対象だったのと同じで、竜王を倒せるだけの力を持った勇者も、平和が訪れた世では目の上のたんこぶでしかない。王位を継ぐつもりがないなら、そんな存在は統治の邪魔になるだけ。それに、竜王を倒したことを感謝しても、普通に暮らす人々にとって、人でありながら竜王を倒せちゃう人間なんて、自分たちとは違う異質な存在でしかない。自分の居場所がそこにはないことに気がついていて、だから勇者は空気を読んでアレフガルドから去っていったのではないかと。
特別な存在の勇者には最初から存在理由が与えられていたけれど、その分孤独な存在で、それならむしろ、どんぐりの背比べな個性に悩む平凡な生き方の方が素敵な日々なんじゃないかと。つまり、存在理由なんてことをそんな深刻に悩まない方が幸せな気がする、と、そんな思春期真っ盛りの出来事でした。
で、そこからさらに大分経って、DQも10を超えてすべてのストーリーを諳んじることができなくなった頃、ゲームデザイナーの堀井雄二氏のインタービュー記事を読んだのです。DQ5の記事だったかなー。ビアンカとフローラの選択の話が載ってた気がします。
それで、ドラクエ世界には「語られない物語がたくさん潜んでいる」的な遊び心があることを知って、「ならばもう一度大人視点でドラクエ世界を旅しなければ!」とスマホアプリになったDQ1をプレイし始めました。
もうすっかり忘れていたDQ1のエンディング、ロトの勇者はやっぱり旅立って、それで幼き日のつっかかりを思い出したんですけれど、ここで新たな疑問が。遊び心にあふれたドラクエ世界を作り上げた堀井雄二氏が「エンドロールの後に勇者は空気を読んで立ち去らねばならない」的な人間の業を、果たしてストーリーに盛り込むだろうかと。
そんな疑問を抱えつつDQ1を終えて、続けてDQ2のプレイに入りました。それで、知ってはいたけれど実感が伴ってなかったことに気がついたんですが、DQ2の主人公って、ロトの子孫がアレフガルドを離れた後、新天地に辿り着いて作った国の王子王女なんですよね。世界だと思っていたアレフガルドは大陸でしかなくて、そこから先にはもっと広い世界が広がっていた。
DQ2の物語が始まり、主人公3人組が故郷を旅立って世界中を巡るんですけれど、その中で再びアレフガルドが登場するんですよ。大陸のとある一地方として。廃れた感じにラダトーム城があって、で、その時胸にこみ上げてきた何とも言えない感情。
もしもDQ1の主人公がアレフガルドに残ることを選択していたら、大陸のとある一地方の小さなお城の管理者として、腫物に触られるように一生を終えたかもしれなくて、それならアレフガルドを飛び出し、新天地を旅して自分の国を新たに作ったほうが、勇者のその後の物語としてふさわしいよね、と。
エンドロールの後、アレフガルドに勇者の居場所は用意されなかったのは、むしろ勇者にとって竜王との戦いは序章に過ぎなかったからで、そこから冒険が始まったんだなと考えたら、物語の尺の長さを勝手に決めて「昔の俺はすごかった」なんて昔語りにしてしまうのはとてももったいないことに思える。
DQ2をプレイしてその事実に気がついて「やばいドラクエ楽しいシリーズ全作プレイしたい…!!」みたいな衝動に襲われましたと言う話です。これリアルタイムに気がついた人たち相当楽しかっただろうな。羨ましいな。