『ナミヤ雑貨店の奇蹟』読みました。
かつて悩み相談を請け負っていたという「ナミヤ雑貨店」。悪事を働き、時間稼ぎで廃屋に忍び込んだ3人は、時空を超えて投函された「過去からの悩み相談」に、気まぐれとお人好しで返事を書くことにするが...?からはじまる、人と手紙と人の話。
- 作者: 東野圭吾
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2012/03/28
- メディア: 単行本
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単純に書くなら「現在に生きる3人組が過去の人々の悩み相談に乗る」というストーリー。未来から過去に送った手紙が過去の誰かの人生に影響を与えて、の玉突き設定で、悩み相談に来る人たちの「ままならない」無力感と、そこから視点を変えての爽やかな落着が心地よいです。
そして、感動とは別のところで感慨深く感じるところがあって、それは「ネットやケータイがない時代だから成立する物語」という点です。特にインタビューなど読んだわけではないですが、作者もそれをテーマにしてるんじゃないかな。
話の折々で「ネットやケータイがない時代だから」的なエピソードが出てきて、
- 身近人には相談できない悩みを抱える(→ネットの匿名相談)
- すれ違って出会えなかった二人(→携帯で連絡を取ればいい)
- 海外アーティストの動向(→ネット検索)
今なら問題にならない問題で過去の登場人物達は悩み、藁にもすがる思いで手紙相談をしてくるのです。私達ならネット経由で自己解決できてしまうような悩みで。
ビートルズに心酔する少年が「ビートルズは解散したらしい」と言う情報を聞いて、その理由を知る術がなくヤキモキするシーンが出てきます。少年は、ビートルズの解散理由を知るために、テレビやラジオの情報を集めては嘆き、最後はビートルズのドキュメンタリー映画を見て自分を納得させ、「ビートルズはもういいかな」と口にします。今ならグーグルの検索窓に「ビートルズ 解散理由」と入れて一瞬ですね。
読みながら思ったのは「不便だな」...ではなく「自由って怖いな」ということです。
「正解を調べる」事が出来ないので、テレビや新聞からの「確からしい情報」を収集して、自分で納得して何かを決めるしかない。そういう状況下で、自分で正しさを決めて行動するのって、すごく怖くないですか。
自由と責任は裏返しと言うけれど、常にその自由では「たぶん正しいかもしれない情報」を元に判断しなければならないわけです。現在のように、SNSで本人に確認することも出来ないし、実際に見てきた人に感想を聞くことも出来ない。自分で正解を決めなくちゃいけない。
今の私たちは、ナミヤ雑貨店に持ちかけられる相談で、悩んだりしません。ネット上にいくらでもその答えが転がっているので。正解を調べて、それに納得するだけです。根拠が怪しいと思えばまた、調べればいい。正解とは調べるもの。正解を決める場面はそうそうない。
メディアリテラシーが日本で気にされ始めたのって、自分の理解では1990年代のバタフライナイフ事件(別名栃木女性教師刺殺事件)ですが、このときはまだ、正解って決めるものだったと思うのですよね。メディアリテラシーはあくまで対テレビや新聞への言葉で、現在で言う「オールドメディアを鵜呑みにするな」という。
そのうちメディアリテラシーが対ネットやケータイへ言われるようになって「鵜呑みにするな」から「情報を使いこなせ」がメインになった気がします。正解はどこかにあるので、それにうまくアクセスする、調べる能力を高めろ的な。つまり、正解は調べるものになった。
正解が決めるものではなく、調べるものになったとき、自由ではなくなったんだなぁと思うのです。そしておおよそ、それを許容している自分がいる。だって、不確かな状況下で何かを決めるのって、怖いじゃないですか。既存プロジェクトの変更はすぐ決まっても、新規プロジェクトの開始はなかなか決まらないのと同じです。前例がない、正解がないのだから。
『ナミヤ雑貨店の奇跡』を読みながら、自由でいることが(無意識に)許されない環境下に自分はいるのだなぁと感じてしまったのです。