「主人公がピアニストの少年で病弱な少女のためにピアノ弾いたりなんかして、最後少女の幼馴染と病院で相撲取る話」が何か思い出せなくてモヤモヤしてました。いちご同盟でした。最後に田園演奏するやつ。
記憶の海に潜りこんだついでに、国語の教科書で記憶に残る話をリストアップしたんですが、だいたい小学校に固まりますね。あれだけ復唱され解釈されれば記憶に残るというものです。三つ子の魂百まで的に、学校教育って大事だな、とか。
そんなわけで今も覚えている国語教科書に載っていたお話群です。
スイミー(作者:レオ・レオニ)
黒い魚でぼっちのスイミーが、大きなマグロを恐れる小さな赤い魚たちと一致団結して「大きな赤い魚のふり」をする話。大概の人にとっては「スイミー♪スイミー♪スイミーが見つけた♪」のメロディーが脳内支配するんじゃないかしら。
スイミーが、僕が目になろう、と決意するところ、思い出したらなんとなくジーン。一瞬数の暴力、なんて単語が浮かぶのは、汚れちまった今だからこそ。
ふと思い立ってスイミー英語版に手を出してみたんですが、むしろ谷川俊太郎の訳の素晴らしさを知ってしまった。
モモ(ミヒャエル・エンデ)
風変わりな少女モモが時間どろぼうの灰色の男たちと対峙していく「時間とはなんなのか?」の物語。国語の教科書本体ではなかったかも(道徳?)
旅先でとりとめもない話をしている時に、これを思い出すんです。「時間を無駄に過ごす」大切さのようなもの、一生忘れたくないなぁと。
あと、人々が時間どろぼうに心惑わされ、それをおかしいと告発しようとした道路掃除夫のベッポさんが精神病院に入れられたくだりは、自戒として今も心の中に留め置いてるエピソード。
- 作者: ミヒャエル・エンデ,大島かおり
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/06/16
- メディア: 新書
- 購入: 41人 クリック: 434回
- この商品を含むブログ (291件) を見る
レモン哀歌(作者:高村光太郎)
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた かなしく白いあかるい死の床で
「智恵子は東京に空が無いという」も覚えてて好きなんですが、どっちも色が鮮やかに連想されるのが記憶に残っている最大の理由なのかなと。空の青とレモンの黄色。
こんな美化しなくてもいいのに、という思いと、こうして永遠を遺せるのが詩人なのだ、という思いとが混じり合って、通常淀んで黒になりそうなのに白になってしまった、ような不思議な感慨があります。
道程(作者:高村光太郎)
僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る
これを読んだ国語教師の「どうていって別のどうていじゃないからな!」というドヤ顔が今も忘れられなくて、作者が高村光太郎なのを今改めて認識し、心から何かを謝罪したい所存。先生!!
NHK for Schoolの講義も好き。詩って背景を知ると違う響きが生まれますよね。
道程(高村光太郎) |10min.ボックス 現代文|NHK for School
甃(いし)のうへ(作者:三好達治)
あはれ花びらながれ をみなごに花びらながれ
自然や歴史的建造物的変わらない美しさも良いけれども、そのいっとき、やがて変わっていくもののぱっとした一瞬の美しさも心を打つものです。もう声に出して読んだ時の心地よさと自分が綺麗なものになったような錯覚と、でも雪のように溶けてしまいそうな儚さが一等好きだった。
この作品が載せられた詩集「測量船」自体がとても好きで、たまに読み返します。
檸檬(作者:梶井基次郎)
得体の知れない鬱々とした気持ちと、それを払拭してしまうような鮮やかな檸檬の彩りと、読んだ当初意味がわからなかった暴走と逃走と。
ちなみにこの作品、記憶の中で「洋書店の書棚から本を抜き出しておいてその上に檸檬を置いて逃走する話」とだけ覚えていて、今ググったところ「日本文学の傑作」ラベルが貼られていて、さもありなん、と思いました。変な感じに心をえぐって染み付く作品だと。
そして「レモン哀歌」と同様、色が記憶に鮮明に残って記憶に残る作品でもあります。タイトル忘れてたけど。
一九八四年(作者:ジョージ・オーウェル)
全体主義的ディストピアの世界。管理社会の閉塞と反抗と諦めと。
あれ?社会科あたりの教科書に引用されてたのを個人的に読んだのかもしれません。国語教師がこれを解説している場面が思い出せない。
この本のせいで共産主義への反発的なものが子供の頃から植え付けられた気がしなくもないので、視野の広さを阻害したという意味ではもっと後から読みたかった。文学的な絶望を知ったのは多分この作品が一番早い。いや、夏目漱石の「こころ」かなー。
足と心(作者:中桐雅夫)
それからふたりの足はとげのうえを歩いてきた、ふたりの心もとげのうえを歩いてきた、やがて足も心も厚くなって、とげもどんな鋭い針も通らないようになった。
詩集「会社の人事」より。この詩集名が気になってしょうがなかった幼き日。
こう、やわらかな心のまま大人になるなんて難しいのよね、という感覚は当時からわかりつつも、それを取り戻そうと渇望するときの「心の軽石」がなんなのか、あの頃から10年以上経った今も私にはわからない。何なんでしょう。
特に意識したわけではないんですが、記憶に残るのは詩が多いなぁということ。あと、色ですね。「レモン哀歌」とか「檸檬」とかまんまですし。
中学だったかなークラスで人気ある男子が「図書館で詩集読んでる女子って憧れるよね」といったから、みんなして図書館で詩集読んでた時期があったんですよね。もうその男子の名前は思い出せないけれど、詩集の名前は覚えてます。「聴きなれた曲だけを聴いていたい夜がある」(作者:田中章義)です。好きだった。
そして実はこれ未完のリストで、タイトルだったり作者だったりが思い出せなかったもの多々。シチュエーションだけ覚えてるのも多いんですよね。
「知人が行方不明になった地を訪ねたら知人が虎になってた話(書きながら思い出した山月記だ)」「隣の家から蝶(絵だったかな)を盗み出した少年が、それが隣の家の子供にばれて気まずい思いをする話」などなど。多分記憶補正もかかっててそのシチュエーション自体正しいのかも覚えてないですし。
あと書いてて気がついたんですが、夏目漱石の「こころ」も記憶に残る話です。実は自分の中で、なぜか森鴎外の「舞姫」とごっちゃになってる作品。メロスも走ってない。
はてさて皆様の心に今も残る国語の教科書のお話なんでしょうか?と、問いだけ残してこの記事終わりです。なんか懐かしくないですか。